「恐ろし渕観光開発と保存」の提案
東洋のロダンと称された朝倉文夫彫塑家が、少年時代に過ごした市万田川の源流近くに、豊後国志の神角山の条に「山の半ば泉吐く百尺簾の如し」と記された滝〝恐ろし渕″があり下流へと〝恐ろし渕渓谷″が続いている。
急峻な山肌の谷間を雑木が生い茂り、長年風雪に耐えた岩肌の隙間を縫うように、時にぶつかり白い飛沫を飛び散らしながら、ほつれた一本の糸となり駆け落ちる渓流。時折よどみが現れ一瞬の静寂が訪れる、苔むした岩、佇む木々、周囲に同化した水面。
四季折々の表情を見せてくれる。冬は幹と枝木だけになった雑木、流れの端の岩に取り付く氷柱。春は一斉に芽吹く青葉や咲き誇る花々、時折の静寂時に聞こえてくる鳥たちのさえずり。夏は一層緑を深め蝉の声が谷間をこだまする。秋は紅葉の色彩を流れに写し、来る厳しい冬に備える。
朝倉文夫少年が時折ここを訪れ、芸術の心眼を磨いたであろうことは、後年「私の作品のどれでもその部分のどこかに故郷の岩や石から受けた印象が生かされている」と語った事や、谷中の自宅兼アトリエ兼塾に〝五典の水庭″を創作したことからもうかがえる。
恐ろし渕・渓谷の開発及び保存(案)
朝倉文夫美術館から落ろし渕渓谷にかけてのゾーンを、彫塑芸術のメッカに育てる。
少年時代の朝倉文夫が、ここに再三訪れ、渓流、石、岩、水草、雑木、全ての造形に感動を覚え、後年作品に影響を及ぼしたであろう旨のモニュメントを建立する。
大分アジア彫刻展入賞作品を誘致する。
県立大分芸術短大と協力して、学生の創作した彫塑を散策道脇に毎年誘致する。
近年まで、穀物の脱穀に実際に使用して村の生活になくてはならなかった水車小屋の復元を行う。
恐ろし渕の河童伝説及び雨乞い伝説碑を設置。